自宅で作っても良かったが、母にその場で校正してもらった方が何かと都合が良いからだ。
パソコンを立ち上げるために、父の部屋へ行く。生前の時のままだ。乱雑な机の上には印刷された何かの原稿と島崎藤村の「夜明け前」の文庫本が重ねて置いてある。
父は若いころから郷土史を愛好し、サラリーマン時代も単身赴任先の地元の小さな経済誌に紀行文を連載していたというから本格的なものだったのだろう。晩年の十年ほどは、アマチュアながら市民講座の講師を勤めており、それを生きがいにしていたそうだ。
パソコンを立ち上げ、ドキュメントの中を開くとその講座のレジュメが整然と並んでいた。その最上部、最後に保存されていたWordのファイルの日付は12月25日。最後の入院の前日だ。講座に穴を開けてはいけない、受講生の人の期待を裏切れないとギリギリまで痛みに耐えて準備を進めていたそうだが、この日ついに耐えられなくなって入院を決断したという。ファイルを開くとそれは「夜明け前」をテーマとした講座の原稿だった。原稿にはセンテンス毎に割り当て時間が詳細に記録されており、最後まで諦めていなかったことがうかがえた。
ただ、その原稿のファイル名は慌てて保存したのか、文字が誤変換されており判読する事ができない。
父はどのような思いでこのファイルを閉じたのか。
やり残しの仕事。
自分の知らない、リアルな父の姿を感じる一日。